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3/9の発売からすっかり日が経ってしまったが、Dir en greyのニューアルバム、Withering to deathについて。
この世に存在するありとあらゆる創作物は、その作り手のみが考え出し、絞り出しているように一見見える。だが、実は全ての創作物は、自主的に作るのではなく、何かに作らされているのではないか? という疑念が最近消えない。そうでなければ、全ての作られたものから感じる哲学性を帯びた統一感の説明がつかない。それは決して俗物的な環境の何かに作らされているという訳ではなく、何らかの大きな力が、作り手自身に自覚させる事すらなくその身体を動かし、それを作り出させているのではないか? と感じて止まない。それは運命と呼ぶ小さな括りではなく、それ以上の表現する事が難しい、我々を操る何かによって。
Dir en greyは、いや京は、もはや突き抜けてしまった。この世界において実生活上は必要無いし、考えたくもない「それ」に、ある時から気付いてしまった。それが全て詞に現れている。もはや京はかつて良く詞に書き出していた「物語」等は書き出さないだろう。得意だった、数を詞に書き入れる言葉遊びだって、もはやしたくはないだろう。何故ならば、我々自身が置かれているこの世界以上に奇妙な事は無く、我々を今後待つ体験したくも無い運命は、物語のそれを遥かに超えるからだ。それを扱うスタンスは、ペシミスティックでもニヒリズムでも、ましてや暴力的でも何でも無い。例えて言えば仏教系の悟り、空という概念に近い。多くの生臭坊主が到達していないそれに近い。
例えば、終わらせたいものがあるとする。だが、それを終わらせる事はどうしてもできないとする。その時君は何を思う? 終わらせようとしても終わらせられず、それに対して思いつく限りの様々な努力を試し、考え、試し、考え、試し、考え、試し抜いても、考え抜いても、まだ終わらせる事が出来ない。そんなものに対峙した時、一体君は何を思う? 我々が現在体験している限りでは、そのような恐ろしいものにまだ出会っていないから、想像し難いのも無理は無いが、こんなものをイメージしてみて欲しい。君は部屋に監禁され、ゲームを続ける事だけは出来る。そこには電源ボタンのないファミコンだけがある。ゲームを終わらせたくともリセットボタンはあるが、電源ボタンがない。そこでゲームを終わらせる為に君は様々な事を試す。リセットを連打する、コントローラーをガチャガチャさせる、電源コードを引っこ抜こうとする、ゲームを抜こうとする、テレビを壊そうとする、テレビの前から立ち去ろうとする、ファミコンを壊そうとする…etcetc。だが、それらの全てが無意味に終わり、それでも強制的にゲームを続けさせられ、死ねばリセットされ、続けさせられ、リセットされ…とという事を続けさせられたとしたら、一体君は何を思う? 何を思うも糞もあるか。諦めのさらに先という感情を覚えるんだよお前も俺も。
京はある時から、世界はこのようなものである事に気付いてしまった。輪廻によって構成されている恐ろしいこの世界に、切っ掛けは分らないが、気付いてしまった。今回のアルバムには全般的にその観念が良く現れているが、それを最も良く表現しているのが、2曲目の「C」だ。実際、愛したい。目の前の世界を。実際、でももう…。この世界のそれを知ったら愛せる訳が無い。
3曲目の「朔」はひたすらリアルにこの世界を描く。有であるものを有が食い尽くす。その末に何があるのか? その末に幸せなんてある訳が無い。宿主が死ねば、寄生虫も当然死ぬ。寄生虫とは、他でもない我々生物の事だ。環境問題を考えるのも、「地球に優しく」なんてふざけたキャッチコピーも全ては自分達の為だ。だが、それでも頭の足りない我々は、享楽的な消費を繰り返す。毎日真綿で少しずつ首を締められている事にも気付かず。あるいはそれに気付いていながら。
「孤独に死す、故に孤独。」も諦めの先に溢れた感覚に塗れている。明日は良い事あるか?って?有が有を食い尽くす事を考えれば、誰もが「未来なんて無い」という感覚を覚える事は簡単なのに。君達よりココが違うというのは、上記のアレに気付いているかどうかという事だ。
京なりに割と明るく振舞っている曲だってある。「Machiavellism」は気丈に振舞っている。だがここにもまたしてもあの感情と感覚を持ち出している。気付けないよりましなはずさ。
そんな中「dead tree」では少々弱弱しく、この繰り返す世界に対して投げ掛ける。この作り手の悪意を感じる世界に対して、何故? 何故? 繰り返される?と。
「悲劇は目蓋を下ろした優しき鬱」では、生きてくださいと訴える。京の精一杯の優しさが溢れる。そして「鼓動」で幕を閉じる。我々がいくらこの不条理な世界の仕組みに気付いたとしても、生き続けなくてはならない。鼓動し続けなくてはならない。何故ならばそれがこの宇宙にて存在する生物に与えられた、ただひとつの存在意義だからだ。自殺したって逃げる事すら出来ない。常に晴れ晴れしく感じてしまう朝に対して明日も我々は、またおはようを言う。
これらを踏まえ、Withering to deathを聴き直す。この世に対する未来の無さと絶望感だけを持つ事は、瞬間を大切に生きる事を教えてくれる。ニーチェの言う「超人」とはこの境地を指す。上記の拭えない不快感を持つ感情を持ちつつも、それを糧にする。ジョジョの奇妙な冒険 第6部においてプッチ神父がメイドインヘブンによって人類にもたらせようとした「覚悟」も、手塚治虫が火の鳥で示そうとした事も、藤子不二雄Fが短編集で散々書き記したテーマも、代紋take2のラストも、それもこれもあれもどれも、まさにこれだ。我々は、この胡散臭い世界を生きる以外に道は無い。